やらなければいけないことを、何人かで分担することってありますよね。
例えば、職場で大変な仕事をどう分担するか、家庭で家事や育児をどう分担するか。
こういうとき、大体の人は「平等」を求めるものだと思います。
わたしもそうです。
でもそれって、実は「公平じゃなくない?」ということが結構多かったりします。
わたしがそれに気づいたのは、家事と育児の分担について妻さんと認識が大きく違うことでした。
家事と育児の分担は平等なのか
わたしはもともと仕事人間だったのですが、妻さんに「家事や子育ては2人のことなんだから、平等に分担してほしい」という話をされて、少しずつ家事・育児をするようになりました。
ところが、だんだんとわたしの負担が大きいと感じるようになったのです。
例えば子どもの送り迎えや面倒を見る時間、やっている家事の数や種類。
実はわたしの方が多いんじゃない?と。
一度妻さんと家事・育児を全部書きだして、お互いどれだけやっているかを書き出してみたことがあります。
結果、なんとわたしの方が少し多い。
妻さんは、「不定期な予防接種や、あなたの仕事が忙しいときの家事や育児など、イレギュラーなことは全部やっているから平等」だと言うのですが、それでも時間換算するとわたしの方が多いと感じます。
このことで何度も喧嘩をしました。
そして、ようやくあることに気づきました。
妻さんは「平等」ではなく「公平」にしてほしいと言っていたのです。
わたしの平等というのは「客観的に見て仕事量の負担を等しくわけること」だったのですが、妻さんは「主観的に見て心理的な負担を等しくわけること」を求めていました。
例えば、「皿洗いをする」ことは、わたしにとっては大して苦になりません。
でも妻さんはすごく繊細なタイプでちょっとした汚れが気になるし、手も荒れやすい。結果、時間もかかるし心理的負担も大きいのです。
特にイレギュラーなことは、いつ発生するかわかりません。「わたしが仕事でできない」=「妻さんの他にやる人がいない」ので、妻さんはとても大変だと感じていました。
客観的な平等というのは、必ずしも主観的に公平とは言えない。
このことを理解してからは、喧嘩もなくなりました。
今でもわたしは家事・育児をかなりやっていると思いますが、だからといって妻さんが家事や育児をやっていないとは思いません。いい形に公平に分担できているんじゃなかなと思います。
お互いにどのくらい大変だと思うのかが、それ以来わたしたちの分担の基準になりました。
職場で感じる平等と公平に取り違え
この平等と公平の問題は、職場でも結構感じることがあります。
例えば、お客さんへの訪問を「苦にならないどころかむしろ楽しい」と思う人もいれば、「すごく緊張して1週間前から憂鬱」と感じる人もいますよね。
また「育児や介護」などの家庭の事情で、どうしても仕事ができないから分担してほしいというケースもあると思います。
ところが平等を重んじると、こういった個人の主観や家庭の事情を無視するケースが出てきます。
「誰だって何かしらあるんだから、わがままを言うな」というわけです。
これは一見するととても平等なので、反論しにくい。
特に主観的な感じ方は説明しにくいですし、育児や介護は経験していないと理解を得にくいもの。
「平等」を持ち出されると、言われた側はとてもしんどくなってしまうんです。
こういうときに重要なのは、本人以上の周りの人たちが、理解はできなくても、想像できるかだと思います。
実際わたしも、「生理が重くて」と言われても理解してあげることは難しいかもしれません。でもその辛さを思いやることはできると思うのです。
だから、例えば上司に「わがままを言うな」と言われている人がいたとしたら、「それなら、代わりにわたしが分担しますよ」と言ってあげれるような世界になるといいですよね。
「誰だって何かしらあるんだから、お互いさま」
という気持ちを大事にできる会社にしたいなぁと思うのです。
平等
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[名・形動]かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま。「利益を平等に分配する」「男女平等」
公平
[名・形動]すべてのものを同じように扱うこと。判断や処理などが、かたよっていないこと。また、そのさま。「公平を期する」「公平な判定」